わたしのつらくない百合 第一回:『いたいけな主人』

2015.05.22 06:47|わたしのつらくない百合
ここ、完全にコミケ前の告知場所と化してしまっていて、せっかくブログを持っているのだからなにか書こう書こうと思い続けていたのですけれども、やるなら「わたしのつらくない百合」を紹介していく企画にしようと以前から決めていました。
何を書くかの説明もいらないですね、その名の通りわたしが読んでつらくならない百合を紹介するだけです。「わたしの好きな百合」のような肯定的なタイトルにしないのは、百合がもう、わたしにとって完全につらいものと化しているからです。今の百合姫も、百合姫の看板作品ゆるゆりも、深夜に連発されている女子しか出てこない日常系ゆるふわアニメも、もうただひたすらにつらいです。世間一般、多くの人がイメージする“百合”は、わたしにとっての“百合”と解離してしまいました。一時期はすべて網羅する勢いで買っていた百合系コミックスにも最近はまったくと言っていいほど手を出さず、たまにネット上で話題になっている作品を買ってみては「これのどこがおもしろいの?」と愕然とする、ということを繰り返しています。そんなわたしには、「百合っていいよね!百合好きなみんなは仲間だよ!わたしの好きな作品を紹介するから読んでね!」というようなノリで作品を紹介することは、もうできなくなってしまいました。昔はそういうノリでひたすら百合作品の感想を書いていましたね。なにもかもが懐かしい。あの頃のわたしを知っている方は、どれくらいいるのでしょうか。ずいぶん遠いところまで来てしまいました。年齢的にも、心情的にも。

わたしはどうすればいいのでしょうか。
百合から完全に手を引いて、BLや男女カプに移住するべきなのでしょうか。でも、十余年という年月が、わたしから完全に百合を捨てさせてはくれないのです。一番つらい時期、自分で自分のことが一番受け入れられなかった頃、わたしを支えてくれたのが百合というジャンルです。百合を完全に見切るというのは、わたしにとって、からだの一部を切り取るのと同じことです。どうしても、過去を思い出して未練がましくなってしまうのです。
理性では、百合にはもう期待せず、過去を忘れて、新しい萌えを楽しんで生きていくべきなのだろうなあということはわかっています。つらいつらい言いながら百合にしがみついていたって、何も良いことはないでしょう。でも、わたしは理性ではなく感情で生きています。
これは、感情で生きているがゆえに、過去にとらわれて、百合を捨てきれない、さながら成仏できない惨めな地縛霊の妄言録です。わたしは、作品を紹介する、作品をひとにすすめる、ということがとても苦手です。「よかった!」「おもしろかった!」としか言えないです。それでも、わたしの中にある、決して消えない、この作品があるから“百合”を捨てきれない、という作品たちと向き合ってみようかと思います。
向き合って、何がどう変わるというものでもありません。「わたしのつらくない百合」を出しつくしたとき、どうなるのかはわかりません。ただただ、自分と、そして百合と向き合う、これはそんな企画です。


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このfc2ブログ、ボタンひとつでAmazonからリンクを貼りつけられると思ったら、「機能終了のお知らせ」と来やがった。ふざけているのか。
あまりに頭に来たので別サービスに移行しようと思って、はてなダイアリーの新規アカウントを取得したのですが、いやでもはてダに戻るのもな、やっぱ別の場所でやりたいな、でもAmazonのリンク貼りつけられる機能終了ってなに?バカにしてるの?とあまりに腹が立ってfc2はクソだと思ったのでやっぱりはてダに移ろうと思ったのですが、デザインを変更するためにテーマを探す段階ではてダも嫌になってしまいました。なんですかあれ、新着順と人気順でしか見られないんですか……イメージとかから探せないのか。わたしはどこへ行ったらいいんだ……
と打ちひしがれた結果、ものすごく嫌な顔をしながら渋々Amazonのアソシエイトに登録してきました。わたしはアフィリエイトになど興味はないんだ、この「わたしのつらくない百合」ではそういうレスポンスやリアクションに類するものを一切気にせず好き勝手に書きたいんだ。百合どころか世界ぜんぶがわたしにとってつらいです。
でも書くぞ。書きます。

気を取り直して……気を取り直して!
「わたしのつらくない百合」、第一弾は中里十『いたいけな主人』です。

この「わたしのつらくない百合」という企画名はずっと前から決まっていて、そして第一弾はわたしが最も読み返している、週に一度はかならず全巻通して読み返している『君が僕を』にしようと思っていたのですが、いまものすごく橋本美園さんがわたしの中で熱くて、橋本美園さんにいいようにもてあそばれたい……浮気相手になりたい……という状態になっているので、予定を変更して、この『いたいけな主人』になりました。そういう、気分次第で適当に、書きたいときに書いていく感じにしたいと思っています。

中里十作品は、その魅力を言語化して伝えることが非常に難しいと思っています。あらすじや設定をどんなに細かに説明しても、全然その魅力が伝えられないのです。もちろん、わたしの能力や語彙が不足しているということはあるのですが、それを抜きにしても、やっぱり中里作品の魅力は言葉では伝えづらい、と思うのです。
この『いたいけな主人』も、どのように語ればいいのかわかりません。ひと言でいうならば、「これが百合だ」です。キャラクター、世界観、ストーリー、すべての要素が絡み合って、この作品を“百合”たらしめています。この作品を読んで「これが百合だ」と理解できない人は、そもそも百合を読む素養がないです。暴言ですね。でも、ここはわたしが好き勝手に言う場です。わたしのつらくない百合は、こういう作品です。わたしにとっての百合は、これです。ここでくらい、わたしはわたしの“百合”を貫きたい。
中里作品は、魅力が伝えづらい。「いいから読め」、「これが百合だから」としか言えない。なので「百合好き名乗るなら中里作品くらい読んでおけ」とだけ言って終わりたいのですが、いくらここがわたしが好き勝手言える場だからと言って、人の目に触れる、ブログという形をとっている以上、そうも行きませんね。というわけで、最低限に世界観やお話などを紹介します。
“どろぼうの名人サイドストーリー”と銘打たれていますが、中里十のガガガ文庫デビュー作である『どろぼうの名人』とは世界観が共通しているだけです。その世界観とは、「千葉が日本から王国として独立している」、「その後ろ盾にはロシアがいる」ということだけです。なので、この作品単独で何の問題もなく読めます。
主人公は設楽光。独立国千葉の現国王の護衛官を勤めています。国王はもちろん女性、波多野陸子、同性愛者でロリコンです。物語は、光が国王の脱いだ服のにおいを嗅いでいるところを、本人に見つかってしまったところから始まります。いいですか、においを嗅ぐんですよ。脱ぎたての、服の、においを。それで、興奮しているところを見つかってしまうんです。エロい。この作品は、非常にエロいです。エロに満ちています。直接的な性描写がなくとも、エロは全開にできるということを、教えてくれます。たとえば『百合姫Wildrose』(ももう今はないんでしたっけ……?時代に置いていかれている感がひどいですね、今は百合でエロというと『メバエ』とかなんでしょうか)で描かれているようなエロとはまったく別種のエロティシズムが、ここにあります。このエロさ、そしてそれがすべて女性同士で描かれているという素晴しさ、ぜひ味わってほしい。
物語は、光と陸子の二者関係では完結しません。ここに、同性愛者でロリコンだと言われている陸子が招き入れた中学生メイド、平石緋沙子が登場します。登場人物紹介では「陸子の愛人」と書かれていますし、普通に予想するならば、光が緋沙子に嫉妬する、という形で物語は展開しますが、そうはなりません。
さらにさらに、介入してくるのが女中頭の橋本美園。彼女は「緋沙子を追っ払って陸子陛下と二人でゆく覚悟がないのなら、自分が光をさらってゆく」と宣言し、光の身も心も引っかき回します。この橋本美園さん、二十七歳、既婚、子持ちというのが素晴らしい。それだけではなく、もっとでたらめでめちゃくちゃなひとなのですが、それは読んでのお楽しみということで。

無理やりに言葉にすれば、この作品の魅力は、全編通して漂う淫靡なエロティシズムと、二者関係──つまり男女カップルをモデルにした関係性──に追従せずに発展する関係性なのですが、そんな、そんなものではないのです。やっぱり、言葉にできません。「読め!読んでわかれ!」としか言えない魅力が、この作品にはあります。

無理やりに短い言葉に押し込めて、さらにこの作品の魅力を断片化してわかりづらくするような行為だとはわかっているのですが、わたしは何度も何度もこの作品を読み返していて、心の中に深く刻まれて、忘れられないシーンや文章があります。ここはわたしの自己満足の場なので、その断片を書き記すという無粋なことをします。


「なめんなよ」
「……なにを、でしょう」
「萌えを。
 ひかるさんのためにいまの仕事と旦那を捨てられるか、って言われたら、無理。だけど、ひかるさんの萌えのためなら、できる気がする。この怖さ、わかる?」
「よくわかりません」
「愛と正義の怖さは知ってる?」
「少しは」
 どちらも、人をのっぴきならないところに追いやってしまう力だ。
 愛の大きさは比較することができない。だから聖書の羊飼いは、迷子になった一匹の羊を追って、ほかの九十九匹の羊を置き去りにしてしまう。
 正義は永遠に変わることがなく、棚上げにすることもできない。だから聖書のヨブは、神の気まぐれによる試練に耐えつづける。
「萌えって、愛と正義のことだからね。怖い怖い」

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 そのとき稲妻のようにひとつの考えが降りてきた。
「恐れながら申し上げます。
 陸子さまは捨て子にあらせられるので、平石さんを捨てることに執着しておられるのではないでしょうか。ご自分を捨てた生みのお母様の立場に、ご自分を置かれることで──」
 終わりまで言わせず、陛下は私の頬を平手打ちなさった。



 平手打ちは初めてだった。けれど陛下の暴力は初めてではない。こづく程度のことはよくなさる。痣になるほどきつく蹴られたこともある。
 思えば陛下は、私などよりもずっと、暴力になじんでおられる。私はいままで、陛下のほかの誰にも、ぶたれたことがない。それどころか、実物の平手打ちを見たことさえない。だから私は、誰かを黙らせたいときに、平手打ちしようと思いつくことはないだろう。

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 私は陛下のことを思っていた。
 おととい、別れ際に、陛下は私の背中をさすってくださった。そのときはただうれしいくらいで、特別なこととは思わなかった。それは毎日のようにあることで、明日も、来年も、もし命があるなら十年後にも、それはあるはずだ。
 でもそれはやはり特別なことだ。たとえ百万回繰り返すことでも、特別なことだ。その特別さを、普段は忘れているだけで。
 その特別さを、いま突然、私は思い出していた。
 陛下が、私の背中をさすってくださった。奇跡のようなことだと思う。悔いばかり多く罪深い私の人生を、それだけでまるごとプラスに変えてしまう、魔法の杖の一振りだと思う。
 私を喜ばせようとして、私の奥深くに触れてくださる陛下の御手は、どんな奇跡だろう。
 背中をさすってくださる御手と、それほど違わないかもしれない。それなら十分すぎるほどだ。たとえ百万回繰り返すことでも、私は欲しい。欲しくて、たまらない。

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 比較することのできない愛の大きさを、比較させようとするのは。『パパとママ、どっちが好き?』と子供に尋ねるのは。
 愛されなくても悲しまず、愛されても怯まない、その徴。
 つまり、愛していることの証。

 愛の大きさの大小を、口にのぼせるのは。『一番大切な人ではありません』と私が言ったのは。
 嘘をついている徴。
 誰かを愛していないことを、愛の小ささにすりかえて、言い訳しているか。
 あるいは。誰かを愛していることを、小さく見せかけて、ごまかそうとしているか。
『一番大切な人ではありません』と私が言ったのは、『陛下を愛するように愛しています』という意味。

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 繰り返すこと。
 陛下は、生みの母親にされた仕打ちを、緋沙子に向かって繰り返している。けれど、繰り返しているのは同じことではない。それは一度目とは比較にならないくらい、美しく、鮮やかで、甘い。

 私はできればよい人間でありたい。けれど私は天使のようになりたいとは思わない。自分のだめなところをすべて切り捨てて、完璧な人間になりたいとは思わない。私は美しい姿でありたいから化粧をする。けれど自分の顔を、天使と取り替えてしまいたいとは思わない。それと同じことだ。

 繰り返すこと。
 自分がされたことを人にしてしまうとき、一度目よりも、甘く美しくする。
 陛下のなさっていることは、悪い。けれどそこには、人間の素晴らしい力が発揮されている。
 天使ではなく、よい人間であるための力、悪いけれど、よいものが。

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「ひかるちゃんは、順番をつけてるの。一番目とか、二番目とか。ひさちゃんのこと、『私の一番大切な人ではありません』って、このあいだ言ったよね?
 もうひとつ。役割でものを考えてる。護衛官とか、国王とか。
 お仕事には、そういうのも必要だよね。ひかるちゃんに護衛官になってもらったのも、そういうところが欲しかったから、っていうのもあるし。ひかるちゃんが役割してくれないと、私なんて、うざったいガキにしか見えないよ。だからそれはいいんだけど。
 ひかるちゃんは、お仕事以外でも、役割でものを考えてる。
 役割と順番、ふたつあわせて──自分は本妻で、ひさちゃんは愛人、みたいに思ってるでしょ?
 でなきゃ、さっきみたいなセリフ、出てこないよ。ひさちゃんは愛人だから遊びだけにしといて、重たいことはみんな自分に、って思ってない?
 ひかるちゃんのそういうとこ、いじめたくなるんだ」
(中略)
「私は陸子さまを縛るような身ではございません」
「縛れないから妬かない? 逆だよね」
「私のことよりも、陸子さまの望みをおっしゃってください。私をどんなふうにいじめてくださるのでしょう?」
(中略)
「ひかるちゃんの考えてる、役割とか順番とか、そういうルール、壊しちゃう。
 このあいだ、ちょっと壊れちゃったよね、ひかるちゃんのルール──私の夏休みが明けて、実家にお迎えに来てくれたとき。
 ひかるちゃんが、あんな変態だったなんてねー。ひかるちゃんのルールじゃ、絶対いけないことでしょ?
 でも、ひかるちゃん、うれしそうだったよ。こうしてほしいんだなーって、わかっちゃった」
(中略)
「私をそのようにしてくださって、そうすると陛下は、どんな望みをかなえられるのでしょう?」
(中略)
「登山家はどうして山に登るのでしょう? そこに山があるから、だね。
 じゃあ、どうして私はひかるちゃんの上にのっかるのでしょう? そこにひかるちゃんがいるから、だよ。
 ひかるちゃんは、望みをかなえるための手段じゃない。
 ひかるちゃんが、私の望み」



……この引用、物語の終わりまで延々と続けてしまいそうなので、ここらでやめておきます。
この物語において、一部の引用などということは何の意味もなさないということが、この一部を読んだだけでもおわかりになるかと思います。
はじまりから終わりまで、連なる数珠のような物語、けれどそのひと粒ひと粒が輝いていて、忘れられない輝きを目に焼きつけてゆく、そんな物語だと、言いたかったのです。

わたしはこの作品が、大好きです。
一度言いましたが、この作品に“百合萌え”をできないひとは、百合を読む感性がそなわっていないとすら思っています。
そのような作品が、「これが百合だ」とわたしが思う作品が、決して有名ではなく、多くの人の手に取られることもなく、埋もれていること。その現状が、どうしようもなく腹立たしいですし、つらいです。どいつもこいつも百合に対するアンテナが低すぎだろう、と思いますし、これが百合の傑作とされない世界なら、百合などいらない、とやっぱり思ってしまいます。
いま気づきました。わたしのつらくない百合が、わたしにとって百合をつらいものにしている。なんということだ。わたしはどうすればいいのでしょう。

結局どうしたらいいのかわからないまま、「わたしのつらくない百合」第一回は筆を置きます。
とにかくわたしはこの『いたいけな主人』が大好きですし、これが、わたしにとっての“百合”です。これがわからないひとに百合を語ってほしくない、などと言わずにはいられないあたり、怒りと憎悪を原動力に、まだやっていけるのかなあ、でももう疲れたなあ、と思いつつ。

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